物質的な豊かさでは満されない心、温泉が人生を変える物語
現代社会において、多くの人々が物質的な成功を追い求めています。高い地位、潤沢な資産、華やかな人間関係――それらを手にした者は「勝ち組」と呼ばれ、羨望の眼差しを向けられます。しかし、その全てを手に入れてもなお、心の奥底で埋めがたい空虚感を抱えているとしたらどうでしょうか。遠浅よるべ先生が描き出す漫画『ゆげたつらん』は、まさにそのような現代人の心の渇きに寄り添い、一つの答えを提示してくれる物語です。
本作の主人公・大黒宇大(おおぐろ うだい)は、若くして名誉、金、女性といった社会的な成功の象徴をすべて手に入れた青年です 。しかし、彼の心は満たされることなく、からっぽの日々を過ごしていました 。そんな彼が偶然見つけた、スマートフォンの地図アプリに書き込まれた温泉レビュー。それが、彼の人生を根底から覆す、日本全国の名湯・秘湯への招待状となります 。
『ゆげたつらん』は、単なる温泉紹介漫画ではありません。一人の青年が過去の価値観を捨て、新たな生き方を見出すまでの魂の再生の記録であり、風変わりな師と情熱的な弟子が織りなす心温まる人間ドラマです。そして何より、作者の徹底した取材に裏打ちされた、日本の失われゆく美しい原風景を巡る旅の物語でもあります。本稿では、この作品がなぜ多くの読者の心を捉えるのか、その魅力を多角的に解き明かしていきます。
遠浅よるべ先生が描く、心温まる湯巡りコミックの全体像
本作を深く味わうために、まずは基本的な情報からご紹介します。
- 作品名:ゆげたつらん
- 著者:遠浅 よるべ(とおあさ よるべ)
- 出版社:KADOKAWA
- 掲載誌/レーベル:ビームコミックス
- 巻数:全3巻(完結)
ジャンルとしては青年漫画に分類され、紀行もの、日常(スライス・オブ・ライフ)、そしてヒューマンドラマの要素が巧みに融合しています。主人公二人の深い絆が描かれますが、いわゆるBL(ボーイズラブ)作品ではなく、そのブロマンス的な関係性が物語に温かみを加えています 。
本作の最大の特徴は、その圧倒的なリアリティにあります。作中に登場する温泉地のほとんどは実在の場所であり、作者自身が日本各地を旅して綿密な取材を行っていることが読者レビューからも窺えます 。険しい道のりの先にある秘湯や、今にも失われてしまいそうな日本の原風景を丁寧に描き出すことで、読者はまるで主人公たちと一緒に旅をしているかのような没入感を味わうことができます。この徹底した取材が、単なるフィクションに留まらない、優れた旅行記としての価値を作品に与えているのです。
物語の中で宇大と癒しん坊先生が巡った温泉地を以下にまとめました。このリストは、作品世界への理解を深めると同時に、読者自身の「聖地巡礼」の旅の指針ともなるでしょう。
| 巻 | 都道府県 | 登場する温泉地 |
| 1巻 | 北海道 | 温泉旅館銀婚湯 |
| 1巻 | 東北(秋田県など) | |
| 1巻 | 徳島県 | |
| 2巻 | 長野県 | 地獄谷温泉後楽館、野沢温泉 |
| 2巻 | 大分県 | 筌の口温泉(炭酸温泉 山里の湯) |
| 2巻 | 熊本県 | はげの湯温泉(くぬぎ湯) |
| 2巻 | 栃木県 | 三斗小屋温泉(大黒屋、煙草屋旅館) |
| 3巻 | 栃木県、群馬県、新潟県、島根県、和歌山県、山形県 |
勝ち組の青年が全てを捨て、師と共に日本を巡る旅路の軌跡
物語は、主人公・大黒宇大の人生のステージが劇的に変化していく様子を丹念に追っていきます。
序:虚飾に満ちた「勝ち組」の日常
物語の冒頭、宇大はトップ営業マン、そして夜はナンバーワンホストとして成功を収め、富と名声を欲しいままにしていました 。高級旅館に滞在し、完璧なサービスを享受する日々。しかし、その華やかな生活の裏で、彼の心は深刻な虚無感に苛まれていました。食うか食われるかの非情な世界で勝ち続けることに、彼は意味を見出せなくなっていたのです 。
起:人生を変えた一枚のレビュー
そんなある日、宇大は地図アプリに投稿された「癒しん坊(いやしんぼう)」と名乗る人物の温泉レビューに心を惹かれます 。そのレビューに導かれるままに訪れた野天風呂で、彼は人生観を揺るがすほどの感動を体験します。大自然に抱かれ、湯に浸かるという素朴な行為が、これまでどんな贅沢でも得られなかった本物の安らぎと心の充足感を与えてくれたのです 。この瞬間が、彼の人生の大きな転換点となりました。
承:師を追い求め、弟子入りを果たす
あの感動的な体験から2年。宇大はそれまでの生活をすべて捨て去り、人生を変えるきっかけをくれたレビュアー「癒しん坊先生」の足跡を追って、日本中を旅していました 。そしてついに、北海道の山奥にある温泉宿で、憧れの人物との運命的な出会いを果たします 。宇大は涙ながらに「せんせぇぇ!!」「弟子にしてください!」と熱烈に懇願。そのあまりの熱量に対し、癒しん坊先生は驚くでもなく、飄々と彼を受け入れるのでした 。
転:凸凹師弟の日本湯巡り
こうして、ちょっぴり暑苦しい弟子・宇大と、風変りな師匠・癒しん坊先生の二人旅が始まります。当初は「押しかけ弟子」だった宇大ですが、旅を続ける中で次第に師匠に認められていきます 。彼らは共に日本の津々浦々を巡り、変わらないものと変わっていくものに触れ、その土地ならではの美味に舌鼓を打ち、人との出会いに感謝する日々を送ります 。それは、日本の四季の移ろいや、失われつつある文化の尊さを再発見する旅でもありました 。
結:旅の終わりとメタフィクション的結末
穏やかに続いていた二人の旅は、最終巻で新たな局面を迎えます。癒しん坊先生のレビューに目をつけた東京の出版社の編集者が現れ、彼らの旅を本にしないかと持ちかけてくるのです 。商業主義とは無縁だった彼らの純粋な旅に、外部の世界が介入しようとします。そして物語は、読者の意表を突く形で幕を閉じます。今、読者が手にしているこの『ゆげたつらん』という漫画こそが、その出版企画の成果物であったことが示唆されるのです 。
対照的な二人が織りなす、凸凹師弟コンビの魅力に迫る
『ゆげたつらん』の物語を駆動させるのは、まさに対照的な二人の主人公の存在です。彼らの関係性こそが、本作の最大の魅力と言えるでしょう。
大黒 宇大(おおぐろ うだい)
20代の青年。かつては現代社会の価値観における「勝ち組」であり、非情な競争社会を生き抜いてきました 。しかし、温泉との出会いを経て、物質的な豊かさから精神的な充足感を求める生き方へと180度転換します。情熱的で実直、そして「ちょっぴり暑苦しい」と評されるほどの熱意の持ち主です 。彼の変化は、都会的で洗練された姿から、髪を無造作に束ねた「野武士のような出で立ち」へと変わった外見にも象徴されています 。彼は読者の視点を代弁し、日本の隠れた魅力に驚き、感動する役割を担っています。
癒しん坊先生(いやしんぼうせんせい)
宇大が師と仰ぐ、ハンドルネームのみが知られるアラフォー(40歳前後)の男性 。常に冷静で、感情をあまり表に出さない「飄々とした」人物であり、情熱的な宇大とは完璧な好対照を成しています 。彼の真骨頂は、その独特の価値観にあります。多くの人が見過ごしてしまうような「路傍に佇むもの」――例えば、古い石碑や土地に伝わる伝説などに深い価値を見出し、その魅力を簡潔かつ詩的なレビューで伝えます 。彼は、近代化の中で忘れ去られようとしている、より根源的で地に足の着いた価値観の体現者です。しかし、時に「意外と俗世的でしょうもない」一面を見せることもあり、そのギャップが人間的な魅力を加えています 。物語の最後までその正体は謎に包まれており、ミステリアスな存在感を放ち続けています 。
二人の関係性
この「凸凹コンビ」の関係性は、物語のユーモアと温かさの源泉です 。宇大の感情豊かなリアクションと、癒しん坊先生のクールで的確なツッコミの応酬は、読者を飽きさせません。しかし、彼らの関係は単なるコメディリリーフに留まりません。宇大は癒しん坊先生から、温泉の知識だけでなく、物事の新しい見方、つまり人生を豊かにする哲学を学び取っていきます。現代的な価値観に縛られていた宇大が、師との旅を通じて、より本質的で普遍的な価値観へと目覚めていく。この師弟関係こそが、本作のテーマを伝えるための最も重要な装置なのです。
現代社会への問いかけと、失われゆく日本の原風景への眼差し
『ゆげたつらん』は、心温まる旅の物語であると同時に、現代社会に対する鋭い問いかけと、深い洞察に満ちた作品です。
現代物質主義への批評
物語は、富や名声が必ずしも幸福に直結しないという、現代資本主義社会への根源的な問いから始まります 。宇大がかつての生活を捨ててまで求めたのは、華やかな非日常ではなく、「ささやかな幸せ」でした 。本作は、効率や成果が重視される現代において、立ち止まり、自分にとっての本当の豊かさとは何かを問い直すことの重要性を静かに訴えかけます。
「路傍に佇むもの」の哲学
本作の中心的な思想は、癒しん坊先生が体現する「路傍に佇むもの」への眼差しです 。観光地化された名所ではなく、道端の石仏や詠み人知らずの句碑、地元の人々が守り続ける小さな共同浴場。そうした、近代化の過程で見過ごされ、忘れ去られてきたものの中にこそ、その土地の歴史や文化、人々の暮らしの記憶が宿っていると物語は語ります。これは、効率や新しさばかりを追い求める現代の価値観とは対極にある、日本の伝統的な美意識「わび・さび」にも通じる哲学です。
旅人の視点とオーセンティシティ(本物であること)
作者の徹底した現地取材は、作品に圧倒的な説得力をもたらしています 。宇大がかつて高級旅館で体験していたのは、あくまで「観光客」としての受動的な経験でした。しかし、癒しん坊先生との旅は、自らの足で道を切り拓き、予期せぬ発見に心を躍らせる「旅人」の経験です。本作は、パッケージ化された娯楽ではなく、五感で世界と向き合うことの尊さを描き出しています。
メタフィクション的な結末が問いかけるもの
物語の結末は、非常に示唆に富んでいます。二人の純粋な旅が、最終的に「本」という商業製品になるという結末は、一見すると矛盾しているように思えるかもしれません 。しかし、これは作者の巧妙な仕掛けです。この結末は、オーセンティックな経験を記録し、他者と共有することは、その価値を損なうことなのか、という深い問いを読者に投げかけます。商業主義の世界に取り込まれながらも、その経験の本質的な価値を誠実に伝えようとすること――まさにこの『ゆげたつらん』という作品自体が、その問いに対する一つの答えとなっているのです。それは、「商業主義は悪、自然は善」という単純な二元論に陥らない、極めて成熟したテーマの提示と言えるでしょう。
読者の心を掴んだ珠玉のシーンと、深く染み渡る言葉たち
全3巻という短い物語の中に、読者の心に深く刻まれる名場面や名言が散りばめられています。
名場面1:人生を変えた野天風呂
物語の序盤、宇大が癒しん坊先生のレビューだけを頼りにたどり着いた野天風呂のシーンは、彼の人生の転換点を象徴する重要な場面です 。それまでの虚飾に満ちた世界から解放され、大自然の中で湯に身を委ねることで、初めて魂が浄化されるような感覚を味わいます。この静かで荘厳な場面は、宇大の旅の原点であり、物語全体の感動の礎となっています。
名場面2:北海道での運命の出会い
憧れの癒しん坊先生をついに見つけた宇大が、感情を爆発させる出会いのシーンは、本作屈指の名場面です 。子供のように泣きじゃくりながら「せんせぇぇ!!」「弟子にしてください!」と叫ぶ宇大の純粋な情熱と、それに対する癒しん坊先生の飄々とした態度の対比が、コミカルでありながらも感動を誘います。ここから始まる二人の特別な関係性を鮮烈に印象付けました。
名場面3:詩的な静けさの描写
ある読者が「詩的な静かさもあって、稀有な漫画」と評したように、本作は温泉地の感覚的なディテールを巧みに描き出しています 。ページをめくるだけで、「湯の熱さ、水音、露天風呂の鳥の声や遠くの獣の声」が聞こえてくるかのような、静かで没入感のある描写は本作の大きな見所です。派手なアクションやセリフがなくとも、五感に訴えかけることで深い癒やしを読者に提供しています。
心に残る言葉
作中には、人生の指針となるような示唆に富んだ言葉もちりばめられています。
- 「路傍に佇むもの」という哲学:具体的なセリフとして語られる以上に、癒しん坊先生の行動すべてがこの哲学を体現しており、読者に新しい視点を与えてくれます。
- 「名湯・秘湯への招待状」:癒しん坊先生のレビューは、単なる情報ではなく、未知の世界への扉を開く魔法の言葉として機能します 。
- 「神話や伝説には、ベースとなった現実の出来事がある」:3巻の出雲を巡る旅で、癒しん坊先生がヤマタノオロチ伝説について語るこの言葉は、彼らの旅が単なる温泉巡りに留まらず、日本の文化や歴史の深層に触れる知的な探求でもあることを示しています 。
作品をより深く楽しむための、気になる疑問点を徹底解説!
本作について、読者から寄せられることの多い質問とその答えをQ&A形式でまとめました。
Q1: この漫画はBLですか?
A: いいえ、本作のジャンルは青年漫画です。しかし、主人公である宇大と癒しん坊先生の間に描かれる強い絆や、互いを深くリスペクトし合う関係性は「ブロマンス」的と評されることもあり、その温かい人間関係が性別を問わず幅広い読者層に支持される魅力の一つとなっています 。
Q2: 漫画に出てくる温泉は実在しますか?
A: はい、作中に登場する温泉や旅館のほとんどは実在する場所です。作者の遠浅よるべ先生が実際に日本各地へ足を運び、綿密な取材に基づいて描いています。そのため、風景や建物の描写が非常にリアルで、物語への没入感を高めています。単行本の巻末に収録されている取材後記的なコラムも、作品の舞台裏を知ることができて面白いと評判です 。
Q3: 癒しん坊先生の正体は最後まで明かされますか?
A: いいえ、物語の最後まで、癒しん坊先生の本名や職業、過去といった具体的な個人情報は明かされません 。彼の正体が謎に包まれているからこそ、そのミステリアスな魅力が一層際立ち、読者は彼の言葉や哲学に集中することができます。「最後まで分からぬまま…それもまた良し」という読者レビューもあり、この結末は肯定的に受け入れられています 。
Q4: 物語の結末はどのようなものですか?
A: 物語の最終盤、二人の旅の記録を本にするという話が持ち上がります。そして、読者が今読んでいるこの『ゆげたつらん』という漫画自体が、その旅の成果物であったことを示唆する、メタフィクション的な構造で物語は幕を閉じます 。旅の一つの終わりと、その記憶が新たな形で始まり、読者のもとへ届けられたことを感じさせる、非常に余韻の残る締めくくり方です。
Q5: アニメ化などのメディアミックスはされていますか?
A: 現在、アニメ化や実写化といったメディアミックスの公式な発表はありません 。しかし、その美しい風景描写や心温まるストーリーから、映像作品として見てみたいというファンからの期待の声は少なくありません。
旅の終わりに思うこと、『ゆげたつらん』が私たちに遺すもの
『ゆげたつらん』の物語は、現代社会の価値観への疑問符から始まり、簡素さ、自然、そして人との繋がりの中にこそ真の豊かさがあるという発見で幕を閉じます。それは、主人公・大黒宇大の個人的な旅路であると同時に、情報過多な現代を生きる私たちすべてに向けられたメッセージでもあります。
魅力的な「凸凹コンビ」が織りなす軽妙なやりとり、ページをめくるたびに伝わってくる湯の温かさと硫黄の香り、そして私たちの日常に静かな問いを投げかける深い哲学。これらが一体となって、『ゆげたつらん』という作品を忘れがたいものにしています。
この物語が私たちに遺してくれた最も大きな贈り物は、世界を見るための新しい「視点」かもしれません。日々の生活の中で、自分だけの「路傍に佇むもの」を見つけ出すこと。壮大な冒険でなくとも、近所を少し散歩するだけで、世界は新たな発見に満ちているかもしれない。本作は、そうした小さな旅へと私たちを優しく誘ってくれます。
タイトルの「ゆげたつらん」とは、立ち上る湯けむりのことでしょう。それは温泉から立ち上る物理的な湯気だけではなく、目的を見つけ、人との繋がりの中で生きていく人生から立ち上る「心の温かさ」そのものなのかもしれません。全3巻で彼らの旅は終わりましたが、作品が灯してくれた温かい湯けむりは、読者の心の中でいつまでも立ち上り続けることでしょう。そして、ふとした瞬間にこう呟きたくなるのです。
「いい湯気、立ってるなぁ」と 。


