あなたの人生に「結び」はありますか?
物語の構成を語る上で、私たちは古くから「起承転結」という言葉に親しんできました 。物事の始まりがあり(起)、それを受けて展開し(承)、大きな山場や転換点を迎え(転)、そして全てが収束する結末がある(結)。この美しい四幕構成は、私たちに安心感とカタルシスを与え、物語を心地よく着地させるための、いわば黄金律でした 。
しかし、ふと立ち止まって自らの人生を振り返ったとき、そこには本当に綺麗な「結び」があるのでしょうか。結婚や出産、キャリアの頂点といったライフイベントが、必ずしも物語の終着点を意味しない現代。人生100年時代と言われ、定年後にも長い時間が続く中で、私たちの実感はむしろ、ひとつの出来事が終わったかと思えばまた次の展開が待ち受ける、終わりのない変化の連続ではないでしょうか。
そんな私たちのリアルな感覚に、静かに、しかし力強く寄り添う一作の漫画があります。それが、雁須磨子先生が描く最新作『起承転転』です。物語の定石である「結び」を、あえて「転がる」という文字に置き換えたこのタイトル。それは、人生は綺麗に完結するものではなく、どこまでも転がり、変化し続けるのだという、新しい時代の人生観を鮮やかに描き出す狼煙(のろし)なのです。この記事では、なぜ今、多くの人がこの物語に惹きつけられるのか、その深層にある魅力に迫ります。
漫画『起承転転』の基本情報
まずは、作品の基本的な情報を押さえておきましょう。読者が作品にアクセスするために必要な情報を一覧にまとめました。
| 項目 | 内容 |
| タイトル | 起承転転(きしょうてんてん) |
| 著者 | 雁須磨子(かり すまこ) |
| 出版社 | 太田出版 |
| 連載媒体 | Ohta Web Comic |
| ジャンル | ヒューマンドラマ、ライフストーリー |
作品概要:『あした死ぬには、』の先へ。50代という新たなフロンティア
作者である雁須磨子先生の名を、前作『あした死ぬには、』で知った方も多いでしょう。40代女性が直面する心身の変化や人間関係の機微を、圧倒的な解像度で描き出し、第23回文化庁メディア芸術祭マンガ部門で優秀賞を受賞したこの作品は、多くの同世代の読者から熱狂的な支持を集めました 。
本作『起承転転』は、その『あした死ぬには、』が切り拓いた地平の、さらにその先を描く物語です。テーマは、50代。40代という「中年」から、ゆるやかに「初老」へと移行していく、人生の中でも特に繊細で大きな変化が訪れる年代に、真正面から向き合います 。
これは単なる新作というだけでなく、雁須磨子先生がライフワークとして描き続ける「現代を生きる女性たちの年代記」という、壮大な物語群の中に位置づけられる重要な一作と言えるでしょう。前作で描かれた40代の葛藤と気づきを経た先に、50代という新たなフロンティアで、主人公は何を見つけ、何と出会うのか。多くの読者が固唾を飲んで見守る中、物語は静かに幕を開けました。
あらすじ:50歳、東京を離れ、私を始める
物語は、主人公・葉子(ようこ)のこんなモノローグから始まります。
「誰かの妻にもならず、誰かの母にもならず、娘のまま50才になった」 。
この一文に、彼女のこれまでの人生と、現在の立ち位置が集約されています。社会が女性に期待しがちな「役割」を持たないまま、50歳という大きな節目を迎えた葉子。そんな彼女に、人生は容赦なく次なる転機を突きつけます 。
身体の不調、気力・体力・記憶力の減退といった内面的な変化。若者とのジェネレーションギャップや、同世代の訃報、そして避けては通れない親の介護問題といった、外から押し寄せる波。追い打ちをかけるように、長年勤めた会社を辞めることになり、住み慣れた東京を離れ、故郷である福岡へ戻ることを決意します 。
多くのものを手放し、失っていく喪失感の中から始まるこの物語。しかし、それは決して終わりではありません。公式のキャッチコピーが示す通り、これは「何者にもなれなかった私が、新しい自分と出会う物語」なのです 。空っぽになった両手で、葉子がこれから何を掴み取っていくのか。その静かな再出発の過程が、丁寧に描かれていきます。
『起承転転』の3つの魅力・特徴:なぜ今、この物語に惹かれるのか
『起承転転』が多くの読者の心を捉えて離さない理由は、単に「50代女性が主人公だから」というだけではありません。そこには、現代を生きる私たちが無意識に感じている息苦しさや希望を的確に言語化し、物語へと昇華させる、作者の卓越した手腕が存在します。ここでは、本作の核心をなす3つの魅力について深掘りします。
魅力①:タイトルの妙―「結び」を求めない生き方の肯定
物語の定石である「起承転結」は、読後感を決定づける「結」のパートで、読者に安心と満足感を与えることを目的としています 。桃太郎が鬼を退治して財宝を持ち帰るように、シンデレラが王子様と結ばれるように、物語は明確な結末を迎えることで完成する。私たちは、そうした構造に慣れ親しんできました 。
しかし、『起承転転』というタイトルは、その常識に静かに異を唱えます。意図的に「結び」を放棄し、再び「転」を置くことで、この物語が安易なゴールを目指さないことを宣言しているのです。これは、人生が一本道のサクセスストーリーでもなければ、特定のゴールに到達すれば終わりでもない、という現代的な人生観の表れです。ひとつの問題が解決したと思えば、また新たな課題が生まれ、予期せぬ出来事が次々と起こる。それこそが人生のリアルであり、その流動性そのものを肯定しようという力強いメッセージが、このタイトルには込められています。人生100年時代、折り返し地点を過ぎてもなお続いていく長い道のりを前にした私たちにとって、「結び」よりも「転がり続ける」ことのリアリティこそが、深く胸に響くのです。
魅力②:痛いほどのリアリティ―雁須磨子が描く「加齢」の解像度
本作で描かれる「老い」の描写は、驚くほど具体的で解像度が高いのが特徴です。身体の不調、気力・体力・記憶力の減退、若者とのジェネレーションギャップ、親の介護、同世代の訃報――これらは、多くの人がいずれ直面するであろう、普遍的なテーマです 。
この痛いほどのリアリティは、作者である雁須磨子先生自身の深い洞察と実体験に裏打ちされています。インタビューで、先生は40歳を過ぎて不整脈を経験し、「突然体が冷たくなって死ぬのかなって思った」と語っています 。また、別のインタビューでは、手帳に予定を書いていたにもかかわらず、それをすっかり忘れてしまった出来事を「自分が歳をとったっていう自覚をした初めての出来事だった」と振り返っています 。
こうした作者自身の生々しい体験が、作品の描写に圧倒的な説得力と当事者性を与えています。だからこそ、『起承転転』で描かれる葉子の戸惑いや不安は、単なるフィクションの登場人物のものではなく、読者自身の、あるいは近しい誰かの物語として、切実に感じられるのです。
魅力③:「何者にもなれなかった」私たちへのエール
主人公の葉子は、「妻」でも「母」でもない、特定の社会的な役割(ロール)を持たない存在として描かれます 。これは、現代社会の多様な生き方を象徴する設定です。
そして、作品を貫くキャッチコピー「――何者にもなれなかった私が、新しい自分と出会う物語」 は、この物語の核心を見事に突いています。ここで言う「何者にもなれなかった」という言葉は、決して自己否定や敗北の言葉ではありません。むしろ、特定の役割という名の鎧をまとわなかったからこそ、あるいは、まとえなかったからこそ可能になる、純粋な「自分自身」との対面の物語であると解釈できます。
社会が用意した「普通」や「幸せ」のテンプレートに自分を当てはめることに息苦しさを感じている人々にとって、葉子の生き方は、役割から解放された先にある、新しい可能性を示唆してくれます。それは、「何者か」になることだけが人生の正解ではない、という温かくも力強いエールなのです。
心に刺さる見どころ、名場面、名言
物語の随所に散りばめられた、読者の心に深く刻まれるであろうシーンや言葉。ここでは、特に注目すべきポイントを3つご紹介します。
見どころ:「東京」と「福岡」の対比で描かれる心のランドスケープ
本作の重要な設定の一つが、葉子が長年暮らした「東京」を離れ、故郷である「福岡」へと拠点を移すことです 。この物理的な移動は、彼女の心理的な変化を象徴する、巧みな舞台装置となっています。
「東京」が象徴するのは、がむしゃらに働いてきたキャリア、成功へのプレッシャー、そして無数の人々の中に埋没する匿名性かもしれません。一方、「福岡」が象徴するのは、忘れていた過去、老いていく親との関係、そして良くも悪くも密接な地域社会との繋がりです。単行本第1巻の刊行記念サイン会が、物語の舞台である福岡で開催されることからも、この土地が作品にとっていかに重要であるかが窺えます 。葉子が二つの都市の風景の中で何を感じ、どのように内なる心の風景(ランドスケープ)を変化させていくのか、その描写は本作の大きな見どころとなるでしょう。
名場面(予測):第1話「50歳の転機」
連載第1話のタイトルは、まさに「50歳の転機」 。このエピソードには、物語全体の方向性を決定づける、象徴的な場面が凝縮されていると考えられます。特に、葉子がこれまでの人生を振り返り、全ての状況を受け入れた上で、福岡へ向かうことを静かに決意する瞬間。あるいは、福岡の空港に降り立ち、懐かしくもどこか異質な故郷の空気を吸い込む最初のシーン。そこには、過去への決別と未来への微かな希望、そして拭いきれない不安が入り混じった、複雑な感情が描かれているはずです。読者が葉子という人物に初めて深く感情移入する、本作を代表する名場面になることは間違いないでしょう。
名言:「――何者にもなれなかった私が、新しい自分と出会う物語。」
繰り返し登場するこのキャッチコピーは、もはや単なる宣伝文句ではなく、作品の魂を宿した「名言」と言えます 。この一文には、注目すべき二重の構造があります。
前半の「何者にもなれなかった私」は、過去を振り返った際の、ある種の諦念や客観的な自己評価を示しています。しかし、後半の「新しい自分と出会う物語」は、未来に向けられた、能動的でポジティブな意志を感じさせます。この一文だけで、葉子の物語が、ただ流されていく漂流記ではなく、自らの手で未来を切り拓こうとする、静かな探求の旅であることが伝わってきます。人生の岐路に立つ多くの読者にとって、この言葉は自分自身の物語を始めるための、力強いお守りとなるでしょう。
主要キャラクターの簡単な紹介:葉子(ようこ)という一人の女性
本作の物語は、徹頭徹尾、主人公である葉子(ようこ)という一人の女性の視点と内面を通して描かれます 。
彼女のプロフィールは、50歳、独身、子供なし、失業中 。しかし、これらの外面的なスペック以上に重要なのは、彼女が抱える内面的な葛藤です。「娘のまま50歳になった」という言葉は、彼女がこれまで、無意識のうちに「親の娘」という役割の中で自己を規定してきた可能性を示唆しています。だとすれば、親の介護という現実に向き合うことは、彼女にとって、本当の意味で精神的に自立し、一人の人間として親と対峙するプロセスになるのかもしれません。
葉子は、決して特別な能力を持つスーパーウーマンではありません。身体の衰えに戸惑い、将来に不安を感じ、人間関係に悩みます。しかし、その「普通さ」と「弱さ」こそが、多くの読者が彼女に自身を重ね、深く共感する最大の理由なのです。私たちは、彼女のささやかな日常と心の揺れ動きを見つめることで、自分自身の人生を静かに見つめ直すきっかけを得るのです。
『起承転転』Q&A:気になる疑問をスッキリ解決!
ここで、読者の皆さんが抱くであろう疑問について、Q&A形式でお答えします。
Q1. 前作『あした死ぬには、』を読んでいなくても楽しめますか?
はい、全く問題なく楽しめます。『起承転転』は前作とは主人公が異なり、物語も独立しているため、この作品から読み始めても十分に世界観に入り込むことができます。 ただ、もし可能であれば、前作で描かれた40代のリアルな葛藤を知っておくと、本作で描かれる50代という年代の変化や心の機微を、より深く、地続きの物語として味わうことができるでしょう 。
Q2. タイトル『起承転転』の正確な意味は何ですか?
これは、物語の伝統的な構成である「起承転結」の最後の「結(結末・終わり)」を、あえて「転(転回・変化・転がること)」に置き換えた、作者による巧みな造語です。 人生は、一つの綺麗な結末で終わるものではなく、予測不能な出来事が次々と起こり、何度も転機が訪れ、転がり続けるものである、という本作の根幹をなすテーマそのものを表現しています。物語の「結び」を約束しない代わりに、終わりなき人生の旅路を肯定する、力強いメッセージが込められています 。
Q3. どんな人にオススメの漫画ですか?
30代以降のすべての女性はもちろんですが、その限りではありません。人生の転機に立っている方、これからの生き方に漠然とした不安や期待を抱いている方、社会が提示する画一的な「普通」や「幸せ」の形に息苦しさを感じている方など、年齢や性別を問わず、多くの人の心に深く響く物語です。 特に、雁須磨子先生が描く、人間の内面をえぐるようなリアルな心理描写や、乾いたユーモアのファンにとっては、間違いなく必読の作品と言えるでしょう 。
Q4. どこで読むことができますか?単行本の特典はありますか?
本作は、太田出版が運営するウェブ漫画サイト「Ohta Web Comic」にて、隔月10日に更新されています。嬉しいことに、第1話と最新話は常に無料で読むことができますので、まずは気軽に作品の世界に触れてみてください 。
また、2025年9月29日には待望の単行本第1巻が発売予定です。電子書籍版には限定で「描き下ろしショートストーリー」が収録されるほか、太田出版の公式オンラインストア「QJストア」では、雁須磨子先生の直筆サイン本が特製ポストカード付きで限定販売されるなど、様々な購入特典が予定されています。ぜひチェックしてみてください 。
まとめ:あなたの物語も、きっと「起承転転」
ここまで、雁須磨子先生の最新作『起承転転』の多層的な魅力について考察してきました。この物語が描くのは、単なる一人の50代女性の再出発の物語ではありません。それは、「結び」という名の安易なゴールが見えにくくなった現代を生きる、私たち全員の物語です。
あなたの人生は、綺麗な「起承転結」で描くことができるでしょうか。それとも、予期せぬ出来事が次々と起こり、その度に悩み、迷いながらも、どうにかこうにか転がり続けてきた「起承転転」の物語ではありませんか。
もし後者であるならば、葉子の歩む一歩一歩は、きっとあなたの心を照らす小さな灯りとなるはずです。彼女が何でもない日常の中で見つける小さな喜びや、過去と向き合う中で得る静かな気づきは、私たちの明日を支える力になるでしょう。
まずは、公式サイトで無料公開されている第1話を読んでみてください。 きっとそこに、あなたの物語の続きを見つけるはずです 。


