夢の終わりから始まる、静かで熱い物語
みなさんは、夢をあきらめた経験がありますか。
あるいは、かつて心の底から熱中していたものを、辛い記憶とともに封印してしまったことはないでしょうか。
私たち読者は、漫画や物語の中でしばしば「夢を叶える」瞬間を目撃します。少年漫画の主人公たちは、血のにじむような努力の末に頂点へと駆け上がり、勝利の栄光を掴み取ります。それは確かにカタルシスがあり、明日への活力を与えてくれるものです。しかし、現実の世界において、すべての人が「プロ」や「一番」になれるわけではありません。
むしろ、競争の過程で敗れ、夢への道を閉ざされた人の方が多いのが現実です。では、夢に破れた人は、そこで終わりなのでしょうか。一番になれなかったら、その競技や趣味を「好き」でいる資格はないのでしょうか。
2025年11月、講談社「月刊アフタヌーン」から単行本第1巻が発売された『新月の盤に』は、そんな問いかけを静かに、けれど力強く投げかける作品です。
テーマは「将棋」。しかし、本作は藤井聡太竜王・名人のような天才棋士がタイトルを争う華やかな世界を描くのではありません。主人公は、プロ棋士の養成機関である「奨励会」で夢破れ、挫折の痛みとともに将棋盤から離れた一人の高校生です。
著者は、『珈琲をしづかに』や『靴の向くまま』などで知られる、みやびあきの先生。その温かく繊細な筆致で描かれるのは、傷ついた少年が再び「好き」という感情を取り戻していくまでの、心の再生の物語です。
「負けても、”好き”はあきらめなくていい」
このキャッチコピーに胸がざわついた方、今の自分に迷いを感じている方、そしてかつて何かに夢中だったすべての方へ。今回は、この秋最も注目すべき青春将棋漫画『新月の盤に』の魅力を、徹底的に深掘りしてご紹介します。
基本情報:『新月の盤に』のスペック
まずは、本作を深く知るための基礎データを整理しました。作品の立ち位置や、連載媒体の特性を理解することで、物語の奥行きがより見えてきます。
| 項目 | 詳細情報 |
| 作品名 | 新月の盤に(しんげつのばんに) |
| 著者 | みやびあきの |
| 出版社 | 講談社 |
| 掲載誌 | 月刊アフタヌーン |
| レーベル | アフタヌーンKC |
| ジャンル | 青年漫画 / 青春 / 将棋 / 学園ドラマ |
| 連載開始時期 | 2025年6月頃(月刊アフタヌーン連載) |
掲載誌「月刊アフタヌーン」の文脈
本作が連載されている「月刊アフタヌーン」は、漫画好きの間では「一筋縄ではいかない、深みのある人間ドラマ」が多く集まる雑誌として知られています。
例えば、美大受験の過酷さと情熱を描いた『ブルーピリオド』、フィギュアスケートに人生を懸ける指導者と少女を描いた『メダリスト』、高校生活の微細な心の揺れを描く『スキップとローファー』など、近年のヒット作を見ても、単なるエンターテインメントにとどまらない「人生哲学」や「切実な感情」を描く作品が並んでいます。
『新月の盤に』もまた、この系譜に連なる作品と言えるでしょう。「元奨励会員」という重い背景を持つ主人公を据え、勝利のカタルシスよりも「心の動き」に焦点を当てるスタイルは、まさにアフタヌーン読者が求める「読み応え」を満たすものです。
作品概要:作者・みやびあきの先生の軌跡
本作を語る上で欠かせないのが、作者であるみやびあきの先生の存在です。先生の過去の作品や活動を知ることで、『新月の盤に』に込められた空気感がより鮮明に理解できます。
経歴と作風
みやびあきの先生は、福岡県出身、6月21日生まれの漫画家兼イラストレーターです。芳文社の「まんがタイムきららフォワード」でデビューし、初期は『はぢがーる』『おにまん』『なでしこドレミソラ』といった、可愛らしいキャラクターたちが織りなす作品を多く手掛けられていました。
その後、「モーニング・ツー」にて連載された『珈琲をしづかに』では、喫茶店を舞台にした静かで落ち着いた大人の恋愛模様を描き、多くの読者の支持を得ました。この作品で見せた、言葉少なに語る「間」の演出や、日常の中に潜む小さな幸せをすくい上げる感性は、先生の大きな武器と言えます。
さらに、2023年からは『靴の向くまま』という作品も手掛けられており、職人の手仕事や物作りへのリスペクトを感じさせる描写にも定評があります。
音楽との親和性と「和」の心
興味深い事実として、みやびあきの先生は漫画執筆以外にも、イラストレーターとして音楽関連の仕事もされています。2018年には、和楽器ユニット「AUN J CLASSIC ORCHESTRA」が結成した「Team J CLASSIC ORCHESTRA」のCDアルバム『和楽器でアニソン』のジャケットイラストを描き下ろしています。
「1000年続く和の音を、1000年先まで伝えたい」というコンセプトを持つ和楽器ユニットとのコラボレーションは、先生自身が持つ「和」の静謐さや、伝統的なものに対する敬意と共鳴しているように感じられます。将棋もまた、日本の伝統文化であり、盤上の駒音が奏でるリズムや、静寂の中で行われる対話は、音楽に通じるものがあります。
これまでの経歴で培われた「可愛らしさ」「静かな大人の情感」「和の美意識」。これらがすべて統合され、満を持して描かれる「将棋×青春」の物語が、この『新月の盤に』なのです。
あらすじ:止まった時間が、彼女の一手で動き出す
物語の舞台は、どこにでもある高校の日常。しかし、主人公の内面には、誰にも言えない深い傷が刻まれています。
プロになれなかった少年・銀谷悠月
主人公、**銀谷悠月(ぎんたに・ゆづき)**は、かつてプロ棋士を目指していた少年です。
将棋のプロになるためには、日本将棋連盟の養成機関である「奨励会」に入会し、年齢制限という厳しいタイムリミットの中で四段への昇段を果たさなければなりません。そこは「天才の集まり」であり、同時に「天才たちの墓場」とも呼ばれる過酷な競争社会です。
悠月はその奨励会に所属していましたが、実力が及ばず、降級点を重ねた末に退会を余儀なくされました。
「将棋はもう、やめる」
挫折感、劣等感、そして何より大好きだった将棋に拒絶されたという絶望。それらを抱えた悠月は、高校入学を機に将棋とは無縁の生活を送ろうとしていました。盤を見るのも辛い。駒に触れる手が震える。そんな状態だったのかもしれません。
少女・吉金露凛との出会い
そんな悠月の「将棋のない日常」に波紋を投じたのが、クラスメイトの**吉金露凛(よしかね・ろりん)**でした。
彼女は、悠月が元奨励会員であることを知る数少ない人物でした。なぜ彼女がそれを知っていたのか、彼女自身も将棋に関わりがあるのか。謎めいた雰囲気を持つ露凛は、頑なに将棋を拒む悠月に近づき、こう問いかけます。
「好きなんでしょう?」
その言葉は、悠月が自分自身でさえ蓋をしていた本心を見透かすものでした。
再生への第一歩
露凛に導かれるように、悠月は再び将棋盤の前に座ることになります。しかし、それはかつてのような「生活のかかった、命を削るような勝負」の場ではありません。高校の「将棋部」という、純粋に将棋を楽しむための場所です。
プロを目指すのではない。厳しい修行の場でもない。
ただ、目の前の相手と対話し、盤上の宇宙を旅する。
「プロになれなかった」という事実は変わりません。しかし、露凛や将棋部の仲間たちとの関わりの中で、悠月は気づき始めます。自分の中にある「まだ将棋を好きな気持ち」は、決して消えていなかったのだと。
これは、一度死んでしまった少年の心が、将棋という血液を再び循環させ、ゆっくりと蘇生していく物語。新月のように光を失っていた心に、再び満ち欠けのリズムが戻ってくる、青春再生のドラマです。
魅力・特徴:なぜ今、この漫画が響くのか
ここからは、リサーチに基づき、本作が持つ独自の魅力や、他の将棋漫画とは一線を画すポイントについて深く考察していきます。
1. 「セカンドキャリア」以前の「セカンドライフ」という視点
従来の将棋漫画やスポーツ漫画の多くは、「頂点を目指す」上昇の物語です。『ヒカルの碁』や『3月のライオン』、『りゅうおうのおしごと!』など、名作の多くはプロの世界の厳しさと、そこで戦う天才たちの葛藤を描いています。
対して『新月の盤に』は、そのレースから「脱落した後」を起点としています。これは現代社会において非常に切実なテーマです。受験の失敗、就職活動の挫折、夢破れた後の人生。私たちは、人生の早い段階で「選別」され、ドロップアウトの烙印を押される恐怖と常に隣り合わせにいます。
本作は、そうした「敗者」とされる立場から、いかにして自分の尊厳や「好き」という感情を取り戻すかを丁寧に描いています。「プロにならなくても、将棋を指していい」。この当たり前の事実が、挫折を経た悠月にとっては救いであり、同時に受け入れるのが難しい葛藤でもあります。
この「成功だけがすべてではない」というメッセージは、成果主義に疲れた現代人の心に、優しく沁み渡る鎮痛剤のような役割を果たしてくれるでしょう。
2. みやびあきの流「静寂の演出」
前述の通り、みやびあきの先生の真骨頂は「静けさ」の描写にあります。将棋は、盤上で激しい頭脳戦が繰り広げられる一方で、物理的には非常に静かな競技です。駒音、衣擦れの音、扇子の開閉音、そして対局者の呼吸音。
本作では、こうした「音のない音」が、コマ割りや描線のタッチから聞こえてくるような演出がなされています。
例えば、悠月が久しぶりに駒を握るシーン。その指先の震えや、駒の冷たさが伝わってくるような描写は必見です。また、心理描写においても、長々としたモノローグで説明するのではなく、ふとした視線の動きや、背景の余白で感情を表現する技法が随所に見られます。
この「余白」の使い方が、読者の想像力を喚起し、悠月の痛みや喜びを自分のことのように感じさせてくれるのです。
3. ヒロイン・吉金露凛の多層的な魅力
本作のヒロイン、吉金露凛は、単なる「主人公を励ます優しい女の子」ではありません。
彼女が悠月の過去を知っていた理由、そして彼女自身が将棋に向ける眼差し。それらには、まだ明かされていない秘密やドラマが隠されている気配があります。
「好きなんでしょう?」という彼女のセリフは、悠月を挑発しているようにも、慈しんでいるようにも聞こえます。彼女は悠月の「将棋脳」を理解し、彼が言葉にしなくても盤面を通じて会話ができる存在として描かれています。
ボーイミーツガールの枠組みでありながら、安易な恋愛関係に終始せず、「将棋」という共通言語を持つ「同志」としての絆が育まれていく過程。ここには、知的なスリルと人間的な温もりが共存しています。彼女が今後、悠月の再生にどう関わり、彼女自身もどう変化していくのかは、本作の大きな見どころの一つです。
4. 「部活」というサンクチュアリの再定義
元奨励会員である悠月にとって、高校の将棋部は「ぬるい」場所に見えるかもしれません。命懸けで指してきた彼にとって、放課後の部活は遊びに過ぎないからです。
しかし、本作はそうした「遊び」の重要性を説きます。
勝ち負けに縛られ、楽しむことを忘れてしまった悠月にとって、純粋に将棋を楽しむ部員たちの姿は、かつて自分が持っていたはずの初期衝動を思い出させる鏡となります。
「プロを目指さない将棋」に価値はあるのか。その問いに対し、本作は力強く「イエス」と答えます。部活動という、プロとアマチュアの狭間にある空間を「敗者の逃げ場所」ではなく「純粋な情熱の聖域(サンクチュアリ)」として描き直している点に、本作の新鮮さと温かさがあります。
主要キャラクター紹介:盤上の登場人物たち
物語を彩る主要なキャラクターについて、現在判明している情報を基に、その人物像を分析します。
銀谷 悠月(ぎんたに・ゆづき)
- 属性: 高校生 / 元・奨励会員
- キーワード: 挫折、未練、再生
- 人物像:かつては神童と呼ばれたかもしれない、あるいはただひたすらに努力した凡人だったのかもしれない。詳細はまだ語られませんが、奨励会という場所で心を折られたことは確かです。「降級退会」という事実は、彼にとって「自分は将棋に愛されなかった」という証明のように感じられています。性格は内向的になりがちですが、根は真面目で、将棋に対しては嘘がつけない不器用さを持っています。露凛の強引な誘いに戸惑いつつも、駒を前にすると棋士としての本能が目覚めてしまう。そのギャップと、徐々に解き放たれていく感情の機微が、読者の涙腺を刺激します。
吉金 露凛(よしかね・ろりん)
- 属性: 高校生 / 悠月のクラスメイト
- キーワード: 観察眼、導き手、謎
- 人物像:悠月のクラスメイトであり、物語のトリガーとなる少女。悠月の過去を知っており、彼が将棋を辞めたことを「もったいない」と感じているのか、それとも別の感情があるのか、その行動原理は興味深い謎を孕んでいます。彼女の言葉は時に鋭く核心を突きますが、そこには悠月への深い理解と、将棋へのリスペクトが感じられます。彼女自身も指すのか、それとも「観る将(観る将棋ファン)」としての天才なのか。彼女のキャラクターデザインや言動からは、みやびあきの先生らしい「凛とした強さ」と「可愛らしさ」が同居しており、非常に魅力的なヒロインとなっています。
Q&A:本作を読む前に解消しておきたい疑問
ここでは、『新月の盤に』を手に取るか迷っている方のために、想定される疑問点をQ&A形式で詳しく解説します。
Q1. 将棋のルールを全く知りませんが、楽しめますか?
A. 問題ありません。人間ドラマとして一級品です。
将棋漫画には「戦術重視」のものと「ドラマ重視」のものがありますが、本作は明らかに後者です。盤面の配置や手筋の意味がわからなくても、「今、悠月が苦しんでいる」「迷いが晴れた」「相手の心が見えた」といった感情の流れは、絵と演出で直感的に理解できるように描かれています。
もちろん、ルールを知っていれば「ここでこの手を指す意味」がわかり、より深く楽しめますが、知らなくても「挫折からの復活劇」として十分に感動できます。
Q2. 恋愛要素はありますか?
A. 「ボーイミーツガール」としてのときめきは十分にあります。
公式の紹介でも「青春ボーイミーツガール」と銘打たれています。ただし、いきなり甘い恋愛が始まるというよりは、お互いの傷や孤独を理解し合う、魂の共鳴のような関係性からスタートするでしょう。みやび先生の前作『珈琲をしづかに』でも、ゆっくりと育まれる関係性が魅力的でしたので、本作でも焦れったくも尊い、繊細な距離感の描写が期待できます。
Q3. 重い話、暗い話になりませんか?
A. 「再生」の物語なので、読後感は前向きです。
導入部では悠月のトラウマや苦悩が描かれるため、シリアスなトーンを含みます。しかし、タイトルの「新月」が示す通り、これは「これから満ちていく」物語です。暗闇の中にいる主人公が、少しずつ光を見つけ、仲間を得て、笑顔を取り戻していく過程が描かれます。みやびあきの先生の作風も温かみがあるため、必要以上に陰鬱になることはなく、むしろ心温まるエピソードが多くなると予想されます。
Q4. どの電子書籍サイトで読めますか?
A. 主要な電子書籍ストアで配信されています。
「コミックDAYS」「コミックシーモア」「BookLive!」「まんが王国」など、講談社の作品を取り扱う主要なプラットフォームであれば購入・閲覧が可能です。多くのサイトで第1話の試し読みが公開されていますので、まずは冒頭だけでも読んで、作品の雰囲気を肌で感じてみることをおすすめします。
Q5. 完結していますか?
A. いいえ、連載が始まったばかりの最新作です。
2025年11月21日に第1巻が発売されたばかりの作品です。これから物語がどう展開していくのか、リアルタイムで追いかける楽しさを味わえる絶好のタイミングです。
さいごに:新月の夜、あなたの心にも光を
ここまで、長文にお付き合いいただきありがとうございました。
『新月の盤に』についてリサーチし、記事を執筆しながら強く感じたのは、この作品が「将棋」という題材を借りて、私たちの人生そのものを描こうとしているということです。
私たちは誰もが、何かの「元・奨励会員」なのかもしれません。
画家になりたかった元・美術部員。
バンドで食べていきたかった元・ギタリスト。
エースストライカーを夢見ていた元・サッカー少年。
大人になるにつれ、私たちは「好き」だけでは生きていけないことを知ります。そして、傷つかないように、かつての情熱を「黒歴史」や「若気の至り」として心の奥底にしまい込んでしまいます。
けれど、悠月が露凛に言われたように、
「負けても、”好き”はあきらめなくていい」のです。
プロになれなくても、世界一になれなくても、あなたがそれを好きであるという事実は、誰にも否定できない尊いものです。
この漫画は、そんな忘れかけていた大切な気持ちを、新月の夜の静けさの中で思い出させてくれる一冊です。
悠月が盤上に打つ一手が、彼の人生をどう変えていくのか。そしてその音が、読者である私たちの心にどう響くのか。
秋の夜長、スマホやテレビの音を消して、静かにこの漫画を開いてみませんか。
そこにはきっと、あなた自身の「青春」の続きが描かれているはずです。

