恐怖と芸術が交差する、極彩色の深淵へようこそ
みなさん、こんにちは。突然ですが、夜眠れなくなるような、それでいて目を離せなくなる「美しい悪夢」を見たことはありますか?
ホラー漫画というジャンルにおいて、日本のみならず世界中で熱狂的な支持を集めるリビング・レジェンド、伊藤潤二先生。その緻密な筆致と独創的な世界観は、読む者の理性を揺さぶり、心地よい不安感へと誘ってくれます。アメリカのアイズナー賞で殿堂入りを果たし、アニメ化や実写化も相次ぐなど、その勢いはとどまることを知りません。
そんな伊藤潤二先生の作品群の中でも、2025年12月5日に発売されたばかりの『伊藤潤二自選傑作集 Dark Colors』は、まさにファンが長年夢見ていた、あるいは恐れていた「禁断の果実」とも言える一冊です。
「また傑作集か」と思われた方、今回は少し事情が違います。この作品集の最大の特徴、それはタイトルが示す通り「Dark Colors」、つまり全編フルカラーで描かれているという点です。しかも、単なる着色ではありません。伊藤先生ご自身が監修を務め、物語の核心に触れる「色」を細部に至るまでコントロールした、決定版とも言える豪華仕様なのです。
白黒の漫画だからこそ感じられた「隙間」や「想像の余地」もホラーの醍醐味ですが、カラーになることで、血液の鮮烈な赤、死体の冷たい青白さ、そして異形の存在が放つ得体の知れないオーラが、ダイレクトに視神経を刺激します。美しさはより美麗に、禍々しさはもっと凶悪に。ページをめくるたびに、鮮やかな絶望があなたを襲います。
今回は、発売されたばかりのこの話題作について、その魅力を余すところなく、かつ未読の方への配慮もしつつ、たっぷりと語り尽くしたいと思います。「ホラーはちょっと…」という方も、この芸術的な一冊を手に取れば、きっと新しい扉が開くはずです。それでは、極彩色の迷宮へご案内しましょう。
基本情報
まずは、この作品の基本的なスペックを確認しておきましょう。手に馴染むサイズ感と、所有欲を満たす装丁も魅力の一つです。
| 項目 | 内容 |
| 作品名 | 伊藤潤二自選傑作集 Dark Colors |
| 著者 | 伊藤潤二 |
| 出版社 | 朝日新聞出版 |
| 発売日 | 2025年12月5日 |
| 判型 | A5判並製 |
| ページ数 | 224ページ |
| 価格 | 1,870円(税込) |
著者が魂を込めて選び抜いた、色彩を持つ10の悪夢
本作『伊藤潤二自選傑作集 Dark Colors』は、単なるベスト盤ではありません。伊藤潤二先生の膨大な作品アーカイブの中から、「カラーになることで真価を発揮する作品」あるいは「色がつくことで新たな解釈が生まれる作品」を、著者自らが厳選したスペシャルな短編集です。
通常、漫画のカラー化プロジェクトというのは、デジタル彩色によって綺麗になりすぎてしまい、元の線画が持つおどろおどろしさが消えてしまうことも少なくありません。しかし、本作は著者が全編監修を行っているため、伊藤先生独特のペンタッチの勢いや、陰影の深さが損なわれることなく、むしろ強調されるような着色が施されています。
収録されているのは、伊藤ホラーの代名詞とも言える「富江」シリーズや、憎めないダークヒーロー「双一」シリーズといったメジャーな作品から、知る人ぞ知るカルト的な人気を誇る短編まで、バラエティに富んだ全10編。
具体的には、以下のラインナップとなっています。
- 富江・もろみ
- 富江・もろみ PART2
- 双一の愛玩動物
- 橋
- アイスクリームバス
- 漂着物
- 隣の窓
- 白砂村血譚
- 白砂村血譚 PART2
- ノンノン親分・ノンノン親分のかくれんぼ
それぞれの作品が、なぜ「Dark Colors」に選ばれたのか。読み進めていくうちに、その理由が肌感覚で理解できる構成になっています。血の色、海の色、異界の色。言葉では表現しきれない「生理的な色」が、物語の恐怖を増幅させているのです。
日常に潜む裂け目から覗く、極彩色の理不尽
ここでは、収録されている珠玉の短編の中から、特に注目すべき作品のあらすじと、カラー化による見どころをご紹介します。どの物語も、私たちの平穏な日常が、ふとしたきっかけで常軌を逸した世界へと変貌していく様を描いています。
富江・もろみ
伊藤潤二先生のデビュー作にして最高傑作の一つである「富江」シリーズ。男たちを狂わせ、殺し合わせ、何度殺されても再生する美しき怪物・富江。
このエピソードでは、富江に魅入られた男・石塚が、彼女を殺害した後、その死体をミンチ状になるまですり潰してしまうところから物語が加速します。石塚は、富江の肉片が増殖し再生することを恐れ、徹底的に破壊しようとしたのです。
しかし、特製の樽の中に放置された富江の肉塊は、腐敗することなく、まるで酒蔵の「もろみ」のように発酵を始めます。芳醇で妖しい香りを放ちながら、ブクブクと泡立つ肉のスープ。その中から、無数の小さな富江たちが再生を試みる姿は、圧巻の一言です。
カラー版では、この「肉のもろみ」の質感が凄まじいことになっています。ピンク色の肉塊、発酵する泡の白さ、そして再生しかけた富江の瞳の黒さ。美しさとグロテスクさが渾然一体となったビジュアルは、一度見たら忘れられません。
双一の愛玩動物
口に釘をくわえ、藁人形を打ち付ける陰気な少年・双一。彼が登場するシリーズは、ホラーでありながらブラックユーモアに満ちており、独特の人気を誇ります。
ある日、双一の姉・サヨリが捨て猫を拾ってきます。「コロン」と名付けられたその子猫は愛くるしく、家族のアイドルとなりますが、双一だけは猫を敵視し、独自の「かわいがり」を始めます。
双一がコロンに関わるようになってから、猫の様子がおかしくなります。異常なほどの静電気を帯び、触れる者を感電させるようになり、その表情も次第に邪悪なものへと変貌していくのです。
かつて可愛かったコロンが、逆立った毛並みと青白く光る目で威嚇する姿。この「静電気」の描写や、変貌していく猫の毛色が、カラーによって鮮烈に表現されています。双一のいたずらが招く、笑えない結末にご注目ください。
橋
ある村に伝わる奇妙な風習と、そこに囚われた人々の哀しみを描いた名作です。
主人公の加奈は、祖母からの助けを求める電話を受け、車を飛ばして田舎の村へと向かいます。そこには川が流れており、一本の橋がかかっています。
祖母の家に着いた加奈は、その夜、信じがたい光景を目にします。祖母の名を呼びながら、橋の周りを彷徨う無数の幽霊たち。彼らはなぜ成仏できずにそこに留まっているのか。そして祖母が語る、村の過去の因習とは。
日本の湿った風土、夕闇に沈む川面、そして青白く浮かび上がる幽霊たち。この作品における「色」は、恐怖というよりも「哀愁」や「冷たさ」を伝える役割を果たしています。水墨画のような静謐な恐怖が、カラーになることでより深い情緒を纏っています。
白砂村血譚
医師の古畑が赴任したのは、過疎が進み廃村寸前となっている「白砂村(しらすなむら)」。長い間無医村だったこの地で、地域医療に貢献しようと燃える古畑でしたが、村人たちの様子がどこかおかしいことに気づきます。
村人たちは一様に顔色が悪く、重度の貧血症状を呈しているのです。さらに、ちょっとした怪我でも大量に出血し、血が止まらなくなる奇病が蔓延していました。
美しい白い砂に覆われた村で、絶えず流され続ける赤い血。タイトルの通り、「白」と「赤」のコントラストが支配するこの物語は、まさにカラー化されるために描かれたような作品です。
村人たちが隠す恐るべき秘密、そして医師・古畑を待ち受ける運命。ページ一面に広がる鮮血の海は、読者の視界を赤く染め上げるでしょう。
アイスクリームバス
住宅街に突如現れた、派手な装飾のアイスクリームバス。運転するのは、愛想の良い若い男。彼は子供たちに大人気で、毎日のように甘いアイスクリームを振る舞っています。
しかし、そのバスには大人が決して入れない不思議な結界のようなものがありました。そして、アイスクリームを食べ続ける子供たちに、奇妙な変化が現れ始めます。
ポップでカラフルなアイスクリームバスのデザインと、そこで繰り広げられる甘ったるい地獄。パステルカラーの可愛らしい色彩が、逆説的に恐怖を引き立てる、サイケデリックなホラー作品です。溶けたアイスクリームの粘着質な質感が、カラーでより不快に、より甘美に描かれます。
漂着物
海岸に打ち上げられた、巨大な謎の生物の死骸。クジラのようでもあり、深海魚のようでもあるその物体は、腐敗ガスを放ちながら波打ち際に横たわっています。
学者たちが調査を進めると、その半透明の皮膚の下に、無数の「人間」が飲み込まれていることが判明します。彼らはまだ生きているのか、それとも消化されているのか。
海という大自然がもたらす圧倒的な「未知」への恐怖。巨大生物の皮膚の質感や、透けて見える人影の生々しさは、白黒では表現しきれなかったディテールです。海の青さと、死骸の濁った色が混ざり合い、強烈な磯の香りが漂ってきそうな臨場感があります。
隣の窓
引っ越してきたばかりの家。その隣家には、奇妙な窓がありました。夜な夜なその窓から、主人公の部屋を覗き込む不気味な隣人。
「隣の窓」という極めて日常的なシチュエーションから始まる恐怖ですが、その隣人のビジュアルインパクトは伊藤潤二作品の中でも随一です。
窓枠越しに見える、油ぎった肌、充血した目、そして伸びてくる腕。夜の闇の「黒」と、隣家の窓から漏れる不気味な「光」のコントラストが、逃げ場のない閉塞感を演出しています。
視覚をハッキングする「Dark Colors」の魔力
血液の温度まで伝わる「赤」の表現
ホラー漫画において「血」は欠かせない要素ですが、『Dark Colors』における赤色の表現は、単なる記号としての赤ではありません。
動脈から噴き出す鮮やかな赤、時間が経って凝固し始めた黒ずんだ赤、そして皮膚の下に透ける血管の紫がかった赤。伊藤先生の監修により、状況や鮮度に応じた多彩な「赤」が使い分けられています。
特に「白砂村血譚」や「富江・もろみ」では、この赤色が物語の主役と言っても過言ではありません。視覚情報として飛び込んでくる赤色は、読者の本能的な警戒心を呼び覚まし、心拍数を上昇させる効果を持っています。インクの匂いの中に、鉄錆のような血の匂いを感じてしまうほどのリアリティです。
死の冷たさを体現する「青」と「緑」
一方で、死者や異界の住人たちを描く際に多用されるのが、青や緑といった寒色系の色彩です。
「橋」に登場する幽霊たちの透き通るような青白さや、「双一」の顔色の悪さを象徴するような緑がかった肌色。これらは、彼らが「生者の世界」の住人ではないことを無言のうちに物語っています。
また、背景美術においても、苔むした岩肌の緑や、月光に照らされた夜道の青など、湿り気を帯びた色彩が効果的に配置されています。日本のジメジメとした気候風土、まとわりつくような湿度が、色を通して肌に伝わってくるようです。
緻密な線画と色彩の完璧なマリアージュ
伊藤潤二先生の絵の最大の特徴は、狂気的なまでに描き込まれた「線」にあります。通常、これほど密度の高い線画に色を乗せると、画面がうるさくなりすぎてしまうことがあります。
しかし本作では、線画の魅力を殺さない、絶妙なバランスでの着色がなされています。線の強弱を活かしつつ、陰影を補強するように色が置かれているため、絵画としての完成度が非常に高いのです。
特に、女性キャラクターの髪の毛の艶や、衣服のしわの表現などは、カラー化によって立体感が増し、そこに「実在する」かのような存在感を放っています。
伊藤ワールドを支配する、美しくも狂った住人たち
富江:終わらない悪夢のミューズ
キャッチコピー:世界で最も美しく、最も傲慢な肉塊
伊藤潤二ワールドの絶対的ヒロインにして、最強のモンスター。長い黒髪、妖艶な泣きぼくろ、そして男たちを虜にする魔性の瞳を持つ絶世の美女です。
彼女の特性は「不死」と「増殖」。体をバラバラに切り刻まれても、その肉片の一つ一つが新たな「富江」として再生します。性格は極めて傲慢で、わがまま放題。取り巻きの男たちを女王様のように支配し、最終的には彼らを狂わせて自分を殺させるように仕向けます。
『Dark Colors』では、その美貌がカラーで堪能できるだけでなく、再生途中のグロテスクな姿も鮮明に描かれており、彼女が持つ「美と醜」の二面性が強調されています。
双一:憎めないオカルトトラブルメーカー
キャッチコピー:口に釘、心に闇。でもどこか愛おしい構ってちゃん
常に口に五寸釘を数本くわえ、頭には蝋燭を巻きつけていることもある、見た目からして怪しい少年。自分には特別な霊能力があると信じ込んでおり、気に入らない相手に藁人形で呪いをかけようとします。
しかし、彼の呪いはどこか詰めが甘く、失敗して自分に返ってきたり、周りから変人扱いされて終わったりと、コミカルな結末を迎えることが多いのが特徴です。
本作収録の「双一の愛玩動物」では、彼なりの歪んだ愛情表現が暴走し、飼い猫を巻き込んでの大騒動を引き起こします。ホラーアイコンでありながら、どこか憎めないマスコット的な存在感は健在です。
古畑医師:常識という名の悲劇の目撃者
キャッチコピー:医術では治せない「因習」に挑む、孤独なドクター
「白砂村血譚」の主人公。正義感が強く、僻地医療に情熱を燃やす青年医師です。科学や医学の力を信じ、村人の病を治そうと奔走しますが、そこで彼が直面するのは、医学の常識が通用しない超自然的な現象と、村全体を覆う狂気です。
伊藤潤二作品によく登場する「巻き込まれ型」の主人公の典型であり、読者の視点を代弁する存在。彼の理性が崩壊していく様を通して、私たちは常識の外側にある恐怖を体験することになります。
隣の女:窓越しの訪問者
キャッチコピー:距離感のバグが生んだ、最恐の隣人
「隣の窓」に登場する、主人公の家の隣に住む謎の女性。年齢不詳で、顔立ちは醜悪かつインパクト絶大。夜になると窓を開け、主人公の部屋に向かって「あーそーぼー」と声をかけてきます。
物理的な距離を超えて伸びてくる彼女のアプローチ(物理)は、一度見たらトラウマ必至。彼女のデザインは、伊藤先生の描くクリーチャーの中でも特に人気が高く、その不気味な笑顔がカラーになることで、夢に出てきそうなほどの破壊力を持っています。
今だからこそ知りたい!『Dark Colors』Q&A
Q1: この漫画には原作がありますか?
はい、収録されている作品はすべて、伊藤潤二先生が過去に発表された短編漫画が原作です。それらの名作を、著者監修のもとで新たにフルカラー化したのが本作『Dark Colors』となります。ストーリー自体は既存のものと同じですが、色がつくことで受ける印象や発見がまったく異なるため、既読の方でも新鮮な気持ちで楽しめます。いわば「リマスター完全版」といった位置づけです。
Q2: どんな人におすすめですか?
ホラー漫画ファンはもちろんですが、特に「耽美な世界観」や「グロテスク・アート」に惹かれる方には強くおすすめします。ストーリーの面白さは折り紙付きですが、それ以上に「画集」としての価値が非常に高い一冊です。
また、一話完結の短編集なので、これまで伊藤潤二作品を読んだことがないという方の「入門書」としても最適です。美しい色彩に導かれて、伊藤ワールドの深淵に足を踏み入れてみてはいかがでしょうか。
Q3: 作者の伊藤潤二先生ってどんな人?
伊藤潤二先生は、1963年生まれ、岐阜県出身の漫画家です。元々は歯科技工士として働いていたという異色の経歴をお持ちで、その経験が、歯や人体内部の緻密な描写に活かされていると言われています。
1986年に『富江』でデビューして以来、独創的なアイデアと圧倒的な画力でホラー漫画界を牽引し続けています。その評価は日本国内にとどまらず、海外でも絶大な人気を誇り、「ジャパニーズ・ホラー」の象徴的存在となっています。作風は恐ろしいですが、先生ご本人は非常に穏やかで、ユーモアのある紳士的な方としても知られています。
Q4: かなり怖いですか? ホラー初心者でも大丈夫でしょうか?
正直に申し上げますと、怖いです。
ただの「脅かし」系の恐怖ではなく、精神的にじわじわと追い詰められるような恐怖や、生理的な嫌悪感を催す描写(集合体恐怖症を刺激するものなど)が含まれています。
しかし、伊藤潤二作品の恐怖は、常に「美しさ」や「滑稽さ」と背中合わせです。怖すぎて逆に笑えてきたり、気持ち悪いのに目が離せなかったりと、不思議な魅力があります。「怖いもの見たさ」がある方なら、きっと楽しめるはずです。どうしても不安な方は、明るい部屋で、日中に読むことをおすすめします。
さいごに
『伊藤潤二自選傑作集 Dark Colors』をご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。
ホラー漫画という枠を超え、ひとつの芸術作品として昇華された本書。伊藤潤二先生が長いキャリアの中で積み上げてきた「恐怖の美学」が、カラーという新たな翼を得て、私たちのもとへ飛来しました。
日常のすぐ隣にある狂気、逃れられない因習、そして理解を超えた異形の存在たち。それらが極彩色で描かれるこの一冊は、あなたの本棚の中で異様な存在感を放ち、ふとした瞬間にあなたをその世界へと引きずり込むかもしれません。
冬の夜長、暖かい部屋で極上の恐怖に震えてみるのも、また乙なものです。ページをめくるたびに広がる、美しくも禍々しい「Dark Colors」の世界。ぜひその目で確かめ、その深淵に溺れてみてください。
ただし、読み終わった後、鏡に映る自分の顔色が少し青白く見えたり、隣の家から視線を感じたりしても、それは伊藤ワールドの副作用かもしれませんので、あまり気に病まないように……。


